エリック・リデルの思い出

 

映画「炎のランナー

1981年に公開されましたが、

その数年後にいただいた文書を掲載します。

どこでもらったものか、はっきりおぼえていませんが

おそらく北海道KGKの集まりの中で、OMFの宣教師の方を

通じてではなかったかと思います。

 

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エリック・リデルの思い出

炎のランナー〟のオリンピック選手

                     デヴィッド・J・ミッシェル

 

 アカデミー賞を受けた映画、「炎のランナー」をご覧になった方なら最後の場面で、この映画の主人公の一人について言われた次のことばを読まれたときに、あなたが受けた感動を思い起こされることでしょう。

「エリック・リデルは
 第二次世界大戦の終りに
 占領下の中国で死んだ。
 スコットランドの全国民は
 その死を嘆き悲しんだのである。」

 私はエリック・リデルの死の前日に彼に会ったときのことを思い出します。戦争で拘禁されていた2年以上もの間、私たちの学校は彼と同じ収容所に入れられていたのです。その日、彼は空地の隣りにある収容所病院の近くの、並木の下をゆっくりと歩いていました。この空地で彼はよく、私たち子供にバスケットボールやラウンダーズ(野球によく似た英国の球技)を教えてくれたものでした。いつもと同じように、彼はみんなに、そして特に私たちにほほえみかけてくれました。
 陸上競技のすばらしい選手だったエリックは、1924年のパリ・オリンピックで 日曜日には(神様を礼拝するために)、走ることを断わりました。しかしその後で他の日に、彼は400米競技で見事に金メダルを獲得し.しかも世界新記録を樹立したのです。その時から21年経って、彼は43才で、地上での彼の最後のレースのテープを、いま切ろうとしていました。私たちは、彼が隠していた痛みについて、何も知りませんでした。そして彼もまた、翌日、つまり1945年2月21日の夜、彼の命を奪うことになった脳腫瘍について、何も知りませんでした。
 中国でのエリック・リデルの20年間は、控え目に言ってもまことに波乱に満ちたものでした。彼がオリンピックで勝利を収めたその年のうちに、エリックはエディンバラをあとにしました。壮行会には 千人以上の人々が会堂に入り切れずに、外に溢れていました。英国で彼のものとすることができた名声と栄誉に自ら背を向けて、彼は神の召しに答えて、かつて彼の父が歩んだ跡に従い、宣教師として中国に出かけて行ったのです。何年にもわたって、彼は天津にあるアングローチャイニーズ・カレッジで 科学を教えました。その後で彼は、もっと困難の多い農村での開拓伝道に取組むことにしました。そのためには、歩いたり自転車に乗ったりして、でこぼこ道を遠くまで旅をしなければなりませんでした。
 日中戦争がますます激しさを加えてきた、1930年代終りのある日のことです。エリック・リデルは、放置された荒れ寺で死にかかっている負傷兵のことを耳にしました。その村の人たちは、日本兵の仕返しを恐れて、誰も助けようとはしませんでした。見つかったらどうなるかという当然の恐れはありましたが、それでもエリックは一人の人夫を説きふせて、荷車を引いてその負傷兵を救い出しに行くことにしました。
 その夜、いまにも倒れそうな中国の宿屋で、二人が旅の疲れをいやしていると、神様はルカ16・10のおことばをもって、エリックに励ましを与えてくださいました。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実です。」
 次の日、負傷した人の所に着くと、二人はその人を荷車に乗せて、道を引き返し始めました。周囲を取り巻いている日本軍から奇蹟的に守られ、彼らはでこぼこ道の上を、ぐらぐらと揺れ、音をきしませる荷車を慎重に引きながら帰ってきました。すると途中で、もうひとりの重傷を負った人のことを聞きました。
 この二番目の人は、地下抵抗組織に属する者という嫌疑をかけられ、首を切られるために整列させられた6人のうちの1人でした。5人はひざまづき、日本兵の刀が素早く振りおろされると、首は切り落されました。ところが6番目の男はひざまづくのを拒んだために、刀は的をはずしてしまったのです。けれども、後頭部から口にかけて深い切傷を負いました。彼は頭から地面に倒れ、兵士たちは死んだものと思って行ってしまいました。村人たちがあとでやって来て、彼を近くの堀立て小屋に運び込んでくれました。ますます危険に近づくわけですが、エリックと彼の連れの人夫はこの瀕死の人のところにきて、荷車のかじ棒のところに彼を寝かせました。そしてさらに29粁ほども離れた宣教団の病院まで、この2人の絶望的な負傷者をのせて、歩いて行ったのです。この二人目の負傷者は命を取り留めたばかりでなく、イエス・キリストに従う者となりました。
 真珠湾が爆撃される数週間前には 中国での状況も著しく悪化してきました。そこでエリック・リデルは、妻と2人の子供が中国から出られるように手配をしました。彼自身もまた数か月後には、後を追うつもりでした。無事にカナダに着いた彼の妻フローレンス・リデルは、そこで彼らの3番目の娘を生みました。けれども、エリックはついにこの子を見ることはなかったのです。というのは、エリックがまだ中国を出られないでいるうちに、日本軍はすべての「敵国籍の外人たち」を逮捕して、中国北部の山東州渭縣に抑留してしまったからです。
 1943年の8月に、他の大勢の宣教師の子供たちといっしょに、私もこの同じ渭縣の収容所に送られて来ました。私と同じ年頃の他のすべの英雄崇拝者たちとともに、私はエリックに最初に出会った時の生き生きとした思い出を、永遠に忘れることはないでしょう。収容所の他の捕虜たちはこの人物のことを、「日曜日には走ることを拒んだ、オリンピックのゴールド・メダリスト」と、感動をこめて呼んでいました。
 わずかに長さ180米、幅140米ほどの収容施設に詰め込まれた1,800名の人々のなかで エリック・リデルのすばらしさは際立っていました。戦争のために、もう4年間も親たちから離されていた私たち小さな子供が、学校の先生たちといっしょに住んでいました。エリックは、その建物の管理者でした。彼は私たちの所からそれほど遠くない、男子寮に住んでいましたが、そこはすし詰め状態で、1人1人に畳1帖分ほどのスペースしかありませんでした。そして彼は、監視人が私たちの数を確認に来るとき、その日毎の点呼に立ち会っていました。週に一日、「エリックおじさん」は、私たち小さな子供のめんどうを見てくれました。それは、全員が中国奥地伝道団(C・I・M)の宣教師で、しかも女性であった学校の先生たちに、休みを与えるためでした。利用できる用具は非常に限られていたにもかかわらず、彼が私たちにいろいろなゲームを教えてくれたとき、その顔はやさしさと暖かいほほえみで一杯でした。それはエリックが、どんなに子供たちを愛していたか、そしてまた、自分の娘たちにどんなに会いたかったかを物語っていました。
 エリック・リデルは 運動会を開くのも手伝ってくれました。戦争が長引くにつれ、人々の体力も低下を続けていましたが、それでもスポーツをとおしての競争と友愛は、私たち全員に非常に益となりました。エリック・リデルはベテラン組に参加して、あの頭をのけぞらした彼独特のスタイルで走り、苦もなく勝利を物にしました。人々は老いも若きも、オリンピックの栄光にひたっている感じで、夢中になってそれを見守ったものでした。
 バスケットボールやサッカー、ラウンダーズなどのスポーツの他に、エリック・リデルは彼の愛唱の讃美歌も私たちに教えてくれました。

 やすかれ、わがこころよ、
 主イエスはともにいます。
 いたみも苦しみをも
 おおしく忍び耐えよ。
 主イェスのともにませば、
 たええぬ悩みはなし。
       (讃美歌298番)

 この歌詞は1人の婦人宣教師にとって、非常に大きな慰めとなりました。彼女は戦時中ずっと、夫と離ればなれにされて暮さなければなりませんでした。そればかりか彼女の息子まで、採照灯の塔の所を通っていたはだか電線に触れて、感電死するという事故のために失なっていたからです。
 エリック・リデルはよく、コリント人への第一の手紙13章や、マタイの福音書5葦から、私たちに話をしてくれました。新約聖書のこの2つの個所は 謙そんで、いつも他の人のことを考える彼の人生の秘訣を、生き生きと描き出しています。日曜日には走ることを拒否したことや、彼のオリンピックの記録については、ごくまれに、それも強いて頼まれた時だけしか彼は話しませんでした。
 しかしある時、「エリックおじさん」は、次のようなスリルに富んだ話をして、私たちを喜ばせてくれました。エリックは中国北部で行なわれたある陸上競技会で、番外の特別レースに参加するように懇請されました。問題は、彼が乗るはずの舟の出航30分前に、そのレースは行なわれることになっていたのです。彼はその舟に乗って 当時教えていたカレッジに戻らなければなりませんでした。出航を遅らせてもらおうとしましたが、それはできませんでした。そこで彼は、競技場のトラックから舟に直行できるように、タクシーを手配しました。そのレースには優勝し、エリックは待たせてあるタクシーに跳び込もうとしました。ところがちょうどその時、国歌が流れ始め、そのあと間もおかずにフランス国歌が続きました。そのため、刻々と秒針はきざまれていくのに、エリックは直立の姿勢でそこにいなければなりませんでした。音楽が止まるやいなや、彼はタクシーに跳び込みました。車は猛スピードで走り、20分足らずで波止場に着きました。けれども、その時には 舟はすでに岸壁から離れ出していました。ちょうどその時、大きな波がきて、舟は持ち上げられるような形で瞬間的に岸に近づきました。エリックはこの機をとらえて、まず荷物を舟にほうり込むと、次いで自分がガゼルのように大きく跳んで、動き出している舟の後部にやっと乗り込むことができたのです。
 エリック・リデルは、強制収容所に抑留されていた間中、スポーツやリクリューションの係をしただけでなく、教えたり導いたりして多くの人々の手助けをしました。彼はお年寄り、弱っている人、病んでいる人たちには、特に心をこめて世話をしました。こうした人々には、収容所の環境はあまりにも厳しいものでした。抑留生活の一部であったキリスト教の諸集会には、彼は欠かさず参加していました。戸外のトイレ、ねずみ、はえの不潔さと、すし詰めの収容所内の病気などにもかかわらず 特に変ったこともない日々が続きました。けれども、エリック・リデルの真実で快活な励ましがなかったら、とても耐えられなくなった人たちも大勢いたに違いないと思います。
 エリックは、収容所内の法と秩序を守るのに、大いに貢献した人々のひとりでした。私たちのいた所は、20か国近くのいろいろな国語の人たちが集まっていて、まるで世界の縮図のようでした。私たち何人かの少年が、構内の日本人が居住している区域にある高い木に登りました。その私たちを見つけ、処罰したのが日本人の監視人ではなく、私たちの先生だったのは、私たちにとってなんと幸いなことだったでしょう!
 抑留生活が何か月から何年になっていくにつれ 失望が収容所の上をおおう多くの理由がありました。しかし、エリックは他の者たちと同じように、外部から収容所にはいってくるニュースによって励まされていました。彼はいつも、そのようなニュースを、忠実に私たちにも伝えてくれました。私たちはみな、どのようにしてニュースがはいってくるのか不思議に思っていました。情報の提供者であるエリック自身さえ、知らなかったのです。戦争が終った後で、私たちにはそれがわかりましたが、エリック・リデルはすでに天に召されていて、この話を聞くことはできませんでした。それにしても、なんというスリルに満ちた話だったことでしょう!
 戦争が終わる1年2か月ほど前のことでした。収容所に入れられていた2人の男性が、汚物の汲み取りにやってきた苦力(中国の下層日雇労働者)の助けを借りて、脱走に成功しました。実はこの苦力は、収容所の外にいる他の人たちと結束していたのです。真黒な、体にぴったりと合った中国服を着て、2人は電流の通じている鉄条網をなんとか潜り抜け、真暗やみの中を中国人の共同墓地をはいながら通って逃げて行きました。ひどい状況の中を、はら穴に寝泊りしたりしながら、彼らは南支那を目指しました。そして何か月もかかって、彼らは見つけられることなく、しかもラジオを持って収容所の近くまで戻ってきたのです。
 そして彼らの隠れ場から、収容所にニュースを届けたのです。どのようにしたかと言いますと、小さな絹の布地に暗号でニュースを書き、それをしっかりと巻いて薄いゴム製のカプセルの中に入れます。先に人の男性が脱走するのを手伝ったあの苦力が、このカプセルを自分の鼻の奥に押し込んで、外から見えないようにします。そうした上で 入口で検査を受け、無事に通過して収容所内にはいり、ある決まった場所に来ますと、彼は昔流の中国人のやり方で手鼻をかみ、その小片を地面に落すのです。彼も監視人も見えなくなると、あるカトリックの神父がそのカプセルを拾い、あとで夜になると暗号を解読して、収容中にこっそりニュースを回していたのです。このようにして、抑留されていた人たち全体が、いつドイツが降伏したのか、また、いつ日本との長い戦争がついに終わったのを知ったのです。
 しかし、エリック・リデルはと言うと、人々が収容所から解放されるほんの数か月前に、死が彼を訪れました。彼は構内の日本人の居住区にある、小さな墓地地に埋められました。そこには、抑留中に死んだ他の人たちの墓も設けられていました。私は芝罘と渭縣の学校の子供たちからなる儀仗隊の一員として、その葬儀に参列した時のことを今も思い起こします。私たちはだれも、エリック・リデルのことを忘れることは決してないでしょう。この人こそは、どんな時にも神を第一とし、その謙そんな生涯は、大胆な信仰と輝やかしい敬虔さの結合であり、自分を全く神にささげきったすばらしいクリスチャンでした。
 その秘訣はどこにあったのでしょうか。エリック・リデルは全く無条件に、彼の人生のすべてを、彼の主であり救い主であるイエス・キリストに委ねきっていました。キリストとの交わりこそは、彼にとってすべてのすべてであったのです。彼は毎朝早くに起きてピーナッツ油ランプの今にも消えそうな弱い明かりのかたわらで、狭苦しい男子寮の同室の友人と毎日1時間聖書を学び、祈りのうちに神様と語るのを常としていました。
 クリスチャンとしてエリック・リデルの願いは、もっと深く神様を知ることでした。宣教師としてはこの神様のことをもっと広くもっと多くの人々に知ってもらうことでした。
                        

 

 

 

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